せんだい雑記

楽天イーグルス、日記、備忘録

震災

テレビに出ていた専門家が言うには、1000年に一度の大地震だとか。長い日本の歴史の中で、1000年に一度の大地震被災者になったことの巡り合わせを思うと実に複雑な心境である。また、一方で運の良さも思わずにいられない。何人かの方にお見舞いメールをいただいたが、おかげさまで、家族を含め、全員無事でございます。

住まいの目だった損傷はなかった。食器棚が倒れて、食器が損壊する程度の被害はあったけれど、それ以外は奇跡的に無事だった。そんなわけで、家庭内の復旧はほぼ完了した。ライフラインも、ガスを除く電気、水道が復旧。なんでもガスは復旧まで1ヶ月以上かかるらしい。仙台市のガス行政が悪いわけではなくて、それくらいガス関連施設の被害が甚大であったということだ。風呂に入れないのが1ヶ月以上続くかと思うと気が重い。近くに温泉はあるが、車で移動するにもガソリンがない(給油できない)。ははは…、笑うしかない。

仙台市民は昭和54年に宮城県沖地震という大きな地震を体験している。僕は、そのころ仙台市民ではなかったから、いわゆる震災と呼ばれるような大地震を体験したのは今回が初めてだ。。

(3月11日)

14時過ぎ。僕はオフィスにいた。地震の直前にディスクに置いてあった携帯電話の地震速報がけたたましく鳴り響いた。ただ、この警報には何度か肩透かしを食っていたので緊迫感はほとんどなし。すぐに大きな揺れ、これがなかなかおさまらない。というか、揺れはどんどん大きくなっていった。「これはいつもの地震と違う」、すぐに気づいたがどうしようもない。先の見えない不安、恐怖…。生きた心地がしなかった。逃げ場がないのだ。その場にしゃがんだまま固まっていた。オフィスの書庫などには平時にはなんと大袈裟なと思うくらいの耐震補強がされていた。今思えば、決して大袈裟な施しではなかった。おかげで落下物などによる怪我をした者もなく、全員、無事であった。揺れが落ち着いたあと、めまいかと思うような微震から、また来たかと思うような揺れも含めて、頻発する余震にびくびくしながら外に出た。自宅や勤務先にいる家族の安否が気になったが、電話は通じず。

自宅に飛んで帰る。愛犬と一緒に外でしゃがんでいる息子を見つけ一安心。妻と連絡がとれたのは夜20時過ぎ。停電の夜。余震の不安から近くの避難所(小学校の体育館)へ避難しようかとも思ったが、妻が帰ってなかったのでそのまま自宅に残る。妻が帰ったのは21時であった。

(3月12日、13日)

天気が良かったのが不幸中の幸い。昼、食料と水を調達するべく街をぶらつく。車のガソリン残が少なかったので歩き。停電のため閉店しているコンビニ、スーパーが多い。たまに開いているお店の前にはすでに長蛇の列。皆、物資調達に必死である。水もほしいが、乾電池もほしい。食パンもほしい。結局、どれも買えず。僕の住んでいるエリアは12日夜に電気と水道が復旧。たった一日ではあったが、電気と水道のありがたさをつくづく思う。通じないけど、携帯の充電をして安心する。

実家からもらってきたIHヒーターがあって助かった。お湯が沸かせることの幸せ…。あとで炊飯器でもお湯が沸かせることを知る。お湯といえば、ポット3つのお湯を使って身体を拭く。頭を洗う。

(3月14日)

通常通り出勤。電車通勤の社員の中には週末帰宅できずに避難所生活をした者も多かったらしい。社員は全員無事。ただし、家族の安否不明者が若干名。

物資調達、米5キロ/袋×2、にんにく10個、おかゆのレトルト5つ。

寝る前に身体を拭くも寒すぎる。風呂に入りテー。

(3月15日)

オープンしているGスタンドの情報を入手し向かうも長蛇の列。諦め引き返すも今度は渋滞、無駄にガソリンだけ消費、残りわずか、供給が落ち着くまで車は使わないことにする。

(3月16日)

雪、冬に逆戻り。避難所生活者の苦労を思う。社員の家族の安否がすべて確認された、朗報である。社員の半分は通勤せず(したくてもできない…)。自然に食が細くなっている、体重は3キロ減。福島原発が不安、ここは100km圏内、外出時は毛糸のキャップ、マスク、ネックウォーマー、コートで完全防備。仙台−新宿間の高速バス運行開始、東京への唯一の交通手段か。仙台駅の破損状況を見る限り、新幹線の復旧はずっと先だろう。